れぶにゃん&レイガーの10年観戦記
ぽたろ氏(イラストレーター)
鮫島俊秀氏(鹿児島県バスケットボール協会会長)

鹿児島レブナイズのマスコットキャラクター・れぶにゃん=写真下=。レブナイズの試合会場では、小さな子どもたちと一緒に写真を撮ったり、オフィシャルチアのレイベスと一緒に踊るなど、最早レブナイズになくてはならない存在である。癒し系の応援団長だけでなく「彼は選手として試合に出たくて、今でもどこかで練習していると思います」と「産みの親」であるイラストレーター・ぽたろさんは言う。


れぶにゃんだけでなく、県バスケット協会の公式キャラ・レイガー=写真上=もぽたろさんが産み出した。サッカーの鹿児島ユナイテッドFCの「ゆないくー」も考案している。れぶにゃんやゆないくー。愛くるしく親しみやすいその姿は、バスケットやサッカーの専門的なことには、敷居が高いかもしれない小さな子どもや女性たちをも引きつけ、レブナイズや鹿児島Uを応援するきっかけになったという人も多いだろう。鹿児島にもようやく「プロスポーツ観戦文化」が生まれて約10年。ゆるキャラ風の彼らがこれを支えるために果たした役割は、決して小さくない。レブナイズ誕生10周年を機に、産みの親・ぽたろさんと県協会・鮫島会長が対談し、れぶにゃんやレイガーたちの視点から見た鹿児島のバスケットの歴史を語ってもらった。

イラストBy ぽたろ

趣味のイラストが仕事に!
政 2016年、Bリーグが発足する年の4月に鹿児島レブナイズは誕生しました。今年は誕生10周年の節目に当たります。これまでオンコートのバスケットや、オフコートのクラブ経営などの視点でレブナイズを語ってきましたが、れぶにゃんやレイガー、キャラたちの視点で振り返ってみるのも面白いと思って、今回の対談を企画しました。まずはぽたろさんの経歴を教えていただけますか?

ぽたろ 1983年11月28日生まれで、出身は佐賀県です。妻が鹿児島の出身であり、その縁で今は薩摩川内市に住んでいる鹿児島県民です。本業を持ちながら、趣味でイラストを描くことが好きで、「二足の草鞋」の生活をしています。美大などで絵を専門的に習ったことはありませんでしたが、子どもの頃から絵を描くことは好きでした。地元にJリーグのサガン鳥栖というチームがあり、マスコットキャラクターが好きで将来、こういったプロチームのキャラクターをデザインする仕事ができたらいいなとは思っていました。本格的にキャラクターを描き始めたのは大人になってからで、仕事の合間に独学で学んで身に着けたものです。方向性としては夢がかなったことになりますね(笑)。スポーツは、球技ではなく、子どもの頃から中国武術をやっていました。ブルースリーやジェット・リー、ジャッキーチェンの映画が大好きです。今でも家に小屋を建てて、サンドバッグを吊るして、自己流で鍛錬は続けています(笑)。自分で武術をする分、例えばアニメの「ドラゴンボール」などには興味がわかず、逆に球技への憧れがあり「スラムダンク」は大好きです!
政 鹿児島でバスケットやレブナイズと関わるきっかけは何だったのでしょうか?
ぽたろ 先程、サガン鳥栖の話をしたように、元々僕はプロスポーツ観戦が好きでした。鹿児島に来て、レブナイズの前身・レノヴァ鹿児島の試合を見たことがきっかけでした。それほど頻繁に見に行ったわけではないですが、ジェローン・ダッド選手がいた頃、県体育館であった試合を見たことがあります。

鮫島 まだBリーグのかたちもなかった頃に、当時のbjリーグでもなく、08年シーズンからレノヴァがJBL2にいた時代ですね。そんな頃から、鹿児島には「プロ」の自覚を持ったチームがあって活動していました。
れぶにゃん誕生の秘話
政 キャラクターを描くきっかけは何だったのでしょうか?
ぽたろ 大人になって趣味でイラストを描くようになり、それまでサガン鳥栖を応援していたこともあって、選手のイラストなどを描いたことがありました。鳥栖の番記者をしている方がいて、その方が本を出版するので、選手の挿絵を描いてくれないかと頼まれたことがありました。私が商業的にイラストを描いたのは、その本が初めてでした。

その次がゆないくーです。「鹿児島デザインアワード」というコンペがあり、その中でサッカーの鹿児島ユナイテッドFC(鹿児島U)がマスコットキャラクターのデザインを募集していました。それに応募して選ばれたのがゆないくーでした。ちょうど鹿児島UがJFLを勝ち抜いて、J3に昇格した頃だったので、2015年から16年にかけてのことだったと思います。その次に携わったのがれぶにゃんでした。
政 れぶにゃんのきっかけは何だったのですか?
ぽたろ JBL2やNBDL時代に応援していたレノヴァが「鹿児島レブナイズ」と名称が変わり、Bリーグ発足の16年シーズンからB2に参入するということで注目していました。まだシーズンが始まる前に、白波スタジアムであった鹿児島Uの試合で「レブナイズの選手が会場にやってきて、PRをします」という触れ込みがありました。その会場にやってきた鮫島和人選手と安慶大樹選手のことを、レノヴァ時代から僕は知っていました。趣味で2人のイラストを描いていたので、それを会場で渡したことがありました。面識はないにも関わらず「応援しています!」とその場で声を掛けて渡しました!(笑) サインをしてもらって、一緒に写真も撮ってもらったので、これは1年目のシーズンから、絶対に応援したいと思うようになりました。
応援に何度か足を運んでいて、そういえばレノヴァには「レノヴァスター」というキャラがいたのに、レブナイズには公式なマスコットキャラクターがいないのに気づきました。これまでも自分でキャラを描いて応援するのが好きだったので、自分の描きやすいキャラを描いて作ったら、今、皆さんがご覧になっているれぶにゃんの形になりました。
鮫島 まさに「産みの親」ということですね!
ぽたろ その頃から、れぶにゃんのイラストを使ってポスターを作成したり、ウェブ上で来場を呼び掛ける告知などを自主的にやっていました。「ポスターを見て来ました」と言う人に、お礼を込めてれぶにゃんのシールを作成しました。
鮫島 本当にありがたい話です。SNS上で「ぽたろさんが観戦に来ている」のは知っていても、どの人か分からず「ぽたろさんってどんな人?」と話題になったこともあったそうです。まさしくこの対談のタイトルのように、コートの片隅から、この10年のレブナイズの歩みを見てこられたわけですね!
きっかけは「熱さ」
ぽたろ あの1シーズンの試合を見たおかげで、レブナイズが大好きになりました。なかなか勝つことができず、負ける試合の方が多かったけれども、熱い試合をたくさん見せてもらって、僕も「少しでも力になれれば」という気持ちになりました。

鮫島 「熱さ」を感じていただけたのは大変うれしいです。それを伝えることを主眼にしてやっていましたから。私がヘッドコーチ(HC)をしていたB2最初の16-17年シーズンはとにかく負ける試合が多かった。何しろ7勝53敗ですから! しかし、それは「誇り」のある7勝53敗でした。たとえ勝てなくても、必ず何かで満足させて、お客さんに帰ってもらいたい。もしかしたら次勝てるかもしれないから、見に来たいと思わせる。このミッションを課していました。当然勝利を目指して全力を尽くすのはいうまでもなく、選手の使い方から、最後のワンプレーまで絶対に気を抜かないことは意識してやっていました。そのことを一観客であるぽたろさんが感じてくれていたことが、ものすごくうれしいです! ちなみにあのシーズンの試合を見て、ぽたろさんはどんなところに「熱さ」を感じたのでしょうか?
ぽたろ 1年目のシーズンのホームゲームはほとんど見ていたと思います。外国籍選手がなかなかそろわず、出場できないことや、途中で離脱した選手がいるなど、戦力的にかなり厳しい状況で戦っていました。その中で7勝したことが価値あることだと思います。試合の勝ち負けに関わらず、1試合1試合に全選手が全身全霊で臨んでいるのが、僕自身に伝わってきました。そうやって頑張っている人たちのために「自分に何ができるだろう?」と思った時に、自分にはイラストしかないと思いました。
具体的にどの試合のどのプレーというより、選手1人1人のプレーやまなざし、お互いにコミュニケーションしながら声を出し、勝ち負けに関係なく「バスケットを見てもらって楽しんでもらいたい」と思っているのが、ありありと伝わってきたので、僕はその時にこのチームをずっと応援しようと思いました。
政 シーズン終盤の2、3月は経営危機も発覚し、勝負の前にチーム存続の危機が話題にもなっていました。それでもコートのバスケットは応援したいという気持ちだったということですね。
ぽたろ 経営危機が発覚し、何とか存続させようと、クラウドファンディングが始まったり、駅前で選手が街頭募金活動をしているのを、僕もニュースなどで見ていました。僕に何ができるだろうと思って、僕自身も募金活動をしました。れぶにゃん柄の募金箱を作って、募金活動をして、募金してくれた人にれぶにゃんのシールを渡していました。
そうこうしていると、広島ドラゴンフライズのブースターさんから「れぶにゃんや選手のイラストをもらえないか?」という問い合わせがありました。「広島の試合会場でレブナイズのための募金活動をしたいので、このイラストを使用させてもらえないか?」ということでした。実際に広島の試合会場に僕のイラストが掲示されて、集まった募金がレブナイズに寄せられたということがありました。この一連の出来事を通じて、まだ当時は公式のチームキャラではなかったれぶにゃんが、バスケット関係者に認知されるようになりました。そういった一つ一つの皆さんの努力が実って、クラウドファンディングも目標を達成し、チーム存続が叶いました。
鮫島 当時の大河正明チェアマン(※現在はバレーボールのSVリーグチェアマン)が、うちの練習を見に来られたことがありました。「Bリーグのいろんなチームの練習を見てきましたが、ここまで一生懸命になって選手とコーチがぶつかっている練習は見たことがない」と評価されていました。これは私にとっては何物にも代えがたい財産です。「鮫島和人選手が野獣のような目をしてプレーしていたのがすごい」などとも話されていました。その姿に感銘を受けて自称「あきらめの悪い」チェアマンの大河さんが、リーグの人間をレブナイズの運営の手伝いで派遣してくださり、ホームゲームの観客動員も増え、クラウドファンディングなどの募金も集まり、最終的にはユーミーマンションの弓場昭大さんがオーナーとして引き受けて下さったことで、チームの存続が叶ったというストーリーにつながっていくわけです。あの時のチーム存続の危機も、ぽたろさんや大河さんが感じた「熱さ」が原動力になり、乗り越えることができて今があるのは間違いないですね。
ぽたろ それは間違いないと思いますし、少なくとも僕はそう思っています!(続く)