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「夢念夢想」第24回・鮫島俊秀さん(鹿児島県バスケットボール協会会長)前編

未来へつなぐ「渦」を巻き起こす! 鹿児島から目指し続けた日本一

 「鹿児島に、プロのバスケットチームを作ってみないか?」

 古田仁さんは1992年、山形国体の会場で鮫島さんがふとそんなことを語ったことを今でも覚えている。古田さんは鮫島さんの甲陵高時代の教え子で、理学療法士として仕事をしながら、スポーツトレーナーの活動を続け、国体チームのトレーナーとしてチームに帯同していた。

 その頃「鹿児島のバスケット」といっても目立った実績を残したチームは皆無といってよかった。72年の太陽国体で鹿児島女子高の少年女子が準優勝、男子教員の部でベスト8と華々しい結果を残して以降は低迷の一途をたどっていた。中学は、九州の予選を突破して全国大会の出場権を勝ち取ることが至難の業で、高校の全国大会は、ほとんどが初戦敗退。大学・社会人に至っては、全国はおろか九州さえも勝ち抜けず、国体成績も惨憺たるものだった。

 そもそも当時の日本のバスケットは「実業団」が主流であり、「プロリーグ」自体が存在していなかった。その翌年の93年にサッカーのJリーグができた頃だから、プロ野球以外で「プロスポーツ」とはそもそも何であるのかさえ、浸透していなかった。そんな時代の、鹿児島で、漠然とではあるが「日本一のチーム」「プロバスケットチーム」を夢に描く恩師の姿に古田さんも燃えた。

「なら僕は日本一のトレーナーになって、身体作りからそれをサポートします」。

 あれから30年以上の月日が流れた。レッドシャークス、レノヴァ鹿児島、そして鹿児島レブナイズと名前を変えながら、紆余曲折を経て2024年、レブナイズはB3リーグを勝ち抜き、B2昇格を決めた。鮫島さんはチーム草創期の最も苦しかった時期にヘッドコーチ(HC)として、チームを指揮していた。古田さんはヒューマンケアドリームを設立し、人の身体をケアするノウハウを確立し、人を育て、「仁サロン」を主宰し、その人の夢や目標を叶えるサポートする活動に取り組んでいる。

 恩師の鮫島さんはバスケット、教え子の古田さんはトレーナーと、それぞれ別の人生を歩んでいるが、共通するのは「やる」と決めたことに決して泣き言を言わず、「できる」ための道を常に探し続けていること。2人の対談から、長年、鹿児島のバスケットから日本一を目指すことにこだわり続けた鮫島さんの回顧録をまとめる。

想像力の「妄想バスケット」

 私のバスケットは九州大時代に学生コーチをした頃、試行錯誤して身に着いたものです。大学4年で卒論は書いたのですが、卒業を1年延ばして学生コーチとして、九大をインカレに連れていくというミッションに挑んでいました。その1年でインカレ出場を果たした成就感、成功感というのは、私の人生のある種土台になっています。

 他と同じことをやっても勝てない。だからいろんなことをやりました。映像はないので、8ミリのカメラを借りてきて撮影し、アルバイトしていた喫茶店の壁に映してみんなで見たことを覚えています。

 今のようなバスケットに関する情報は何もない。「バスケットボール・イラストレイテッド」という雑誌があるぐらいでした。その中に「関東の大学が〇〇をやっている」というコメントが出ていると、頭の中で「こんなことをやっているのではないだろうか」妄想するのです。「創造」力ではなく「想像」力の「妄想バスケット」が九大流だったということです。他と同じことはやらないというベースは、今でも変わっていません。

 「映像」がなければ「言葉」からヒントを得るしかない。鹿児島に帰ってきてからは、中村和雄先生の愛弟子である進藤一哉先生が神村学園にやってきたと聞くと、そこにずっと足を運んで学ぶ。あの頃、NBAやマジック・ジョンソンについて鹿児島で語れる人間は彼しかいなかった。そんなことを繰り返しながら、妄想を広げて自分なりのバスケットを作り上げていきました。

 チームは「良い子」だけでは勝てない。俺の言うことを聞け。でもコート上では俺の言うことを聞くな。この相反するベクトルを内包する。その理想を遥か昔に体現していたのが、古田さんの伊敷中時代の恩師で、現在までに唯一中学男子で九州を制した吉川覚先生でした。

 アメリカの大学のUCLAのように、いろんなナンバープレーを仕込んでおく。それがベーシックにあるからこそ、判断が加わることでオリジナルなものが出来上がっていく。料理もレシピ通りでは面白くない。

このままじゃ鹿児島はダメになる!

 92年の山形国体の頃に、「プロチームを作りたい」と古田さんに話しました。

 鹿児島には実業団も、インカレに出るような大学もない。このままじゃ鹿児島はダメになるという危機感がありました。トレーナーをつけているようなチームは全国的にもなかった。その頃、古田さんは病院で身体を扱う仕事をしていて「できるか?」と聞けば「できる」としか言わない人でした。国体チームのトレーナーを古田さんにお願いしました。実業団のチームでもトレーナーをつけているチームはなかったと記憶しているので、かなり早かったと思います。

 古田さんの結婚式のスピーチで話したことですが、ケガをした選手が蘇生して、またコートに立てる。これは自分にとって衝撃的でした。当時、技術を持っているわけではなかったと思いますが、ここを触るとこうなるということが感覚的に分かっていたのではないでしょうか。私にとっては自分自身が身体について勉強できるトレーナーは、今のレブナイズについている生駒祐次さんと古田さんの2人です。そういう意味では、手前味噌ですが、古田さんとの出会いも、彼自身の中にあるものを覚醒させる意味があったのではないでしょうか。

 古田さんにトレーナーをお願いした山形国体で、たまたま1回戦勝利しました。72年の太陽国体以来、成年男子は一度も勝てていなかった中で20年ぶりの勝利でした。いろんなところを見て、いろんなところから選手を集めてきて、いろんな手を尽くした。この発想はレッドシャークス、レノヴァ、レブナイズ、23年の鹿児島国体にもつながります。奇しくもレブナイズの礎になった松崎圭介、安慶大樹、永山雄太、藤田浩司、鮫島和人は92年の生まれ。今言われて初めて気づきましたが、1992年という年はいろんな意味で大きな転機になったということですね。(中編に続く)

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